さざなみのキヲク~宮澤章二先生の詩~

宮澤章二先生の詩をご紹介します

墓の哀れ 秩父路 東京新聞昭和45年11月8日

宮澤章二先生のエッセイ「秩父路」です。


東京新聞埼玉版 昭和45年11月8日(日)



 風物詩を書くために、ときおり県内を歩き回る私だが、
自分の好みもあって、お寺やお墓を目標にする場合が多い。
 いつぞや、大里郡岡部町にある岡部六弥太の歯かを訪れたときには、
五輪の墓石の真ん中あたりの部分が丸く削り取られているのを見て
びっくりした。岡部六弥太は鎌倉時代の人で、源氏に属した武将である。


 私を案内してくれた土地の人が「この墓石を削って飲むと
お乳が出るという信仰が古くからあり、いつのまにやら、
こんなふうにへこんでしまったのです」と教えてくれた。
 奇妙な昔の俗習ではあるけれど、私はそれを一概に笑う気には
なれなかった。仁国営様が普及した現代はいざ知らず、
育児に母乳が不可欠だった頃の母親たちにとって、自分のお乳の出が悪い
という不運は、身を切られるよりもつらい想いだったろう。
だからおそらく幾百人とも知れぬ母親たちが、こっそりと
墓石を削り取って、その粉末を深い祈りとともに飲んだに違いないのだ。
 岡部六弥太という武将は、加増によると肥満タイプの人だったそうで、
胸部なども堂々と盛り上がっていたらしい。その結果、
男性であるにもかかわらず母乳を恵む助け神として、
後の世の女性たちから慕われるはめになったのであろう。


 数日前のこと、こんどは、世の男性たちから愛慕されたに違いない
一女性の墓を見に出かけた。入間郡坂戸町の永源寺に立つ
遊女高尾の墓である。江戸吉原の三浦屋には、高尾を名乗る遊女が
初代から五代目までいたというが、ここに墓のある高尾について
「二代目か三代目か四代目か、そのへんがまだはっきりしません。
いま資料を集めつつありますので、そのうちある程度正確なことが
わかりましょう」と、永源寺の住職さんはいう。
 かなり大型の墓石に刻まれた戒名は「月桂円心大姉」で、
万治三年雪月二十七日没とあり、十二月を雪月と呼ぶあたりも風雅だ。
何歳で死んだのかは寺の過去帳にもないそうだが、
あまり長命ではなかったであろう、と想像される。当時、
高尾を名乗るのは格式の高い遊女だったろいうけれど、
格式が高かろうと低かろうと、しょせんは金がものをいう遊びの里の
女性であり、町人文化興隆の陰に咲くあだ花であったことに
変わりはない。


 ひところ、花柳界の女性たちがよくお参りしたらしいが、
岡部六弥太の墓と違って、こちらのほうには別に削り取られた跡もない。
もともと信心の内容が異なるはずだから、女ごころの切実感にも、
それなりの差があったわけであろう。
 年表で調べると、この高尾の没した万治三年は、
有名な伊達騒動のあった年に当たる。その十二月、
栄華をきわめた一人の遊女が、江戸を離れた草深い里で死んだ。
冬日のなかに観る古い墓は、なぜか哀れである。
 (宮沢氏は詩人)



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先生の、とてもわかりやすくて情景が浮かぶお話。
もののあわれを端的に伝えてくれる・・・。
自分も、先生のように明確でわかりやすい文章を
書きたいものです。






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