さざなみのキヲク~宮澤章二先生の詩~

宮澤章二先生の詩をご紹介します

「茂る夏」




宮澤章二先生。



戦後の昭和~平成前半に活躍した詩人です。



東日本大震災のとき流れた、ACJAPANのCMでその詩が



有名になりました。



終戦時は既に既婚、疎開、仲間の爆死も体験しました。



戦後は、作詞家としてNHKのラジオ歌謡の作詞、



「ジングルベル」の作詞、日本全国の校歌を300校以上作詞、・・・・・



言葉を大切になさった先生。




今日は先生の未発表の詩を紹介させていただきます。








茂 る 夏




野山の 森も 雑木林も


青葉たちが急に茂り合うのではなかった


一本一本の樹木の



一枚一枚の葉っぱが



一日一日 ほんの少しずつ伸びつづけ


気づいたときには 森も林も


暗いほどに うっそうと茂っている


春といい夏といい 秋といい 冬といい


季節に 無駄な日は一日もない


充実した昼と夜が地球上に満ちている


――― そのことを 私たちは自然から学ぶ


草木のすべてが力いっぱい繁茂する夏


自分もまた確実に育っていえることに


君は ある朝 気づかないか・・・・・







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しばらくぶりの更新・母と子の季節



更新が空きました。


宮澤章二先生の生誕100周年記念の企画展が、
故郷の羽生市郷土資料館で昨年10月より1カ月あまり開催されました。


私も、なんとか行ってまいりました。


冷たい雨の日で、電車が事故で白岡で止まってしまうというハプニング付き。





先生直筆の作品、依頼された社歌や校歌の原稿、書類、・・
なにより、先生の生まれ故郷に4年ぶりに行けたことがとても嬉しいです。


帰りには、羽生をお米を買って帰宅しました。


今、新型武漢コロナが蔓延して、
なにもかも分断されてしまっている。。
学校も、コミュニティも、会社も・・・・
下手をすると、親子もです。ずっと一緒に家にいるストレスで
イライラして八つ当たりして・・・・


章二先生と、こんな世のことを語り合えたらなーなんて思ったりしました。



久しぶりに、先生の詩を載せます。


昭和の50年代頃かと思います。
ご子息の新樹様によりますと、書籍になっていないものとのことです。





母と子の季節              


母は 春の大地
子どもらは そこから立ちあがる
子どもらは そこから一歩をふみだす


母は 夏の青空
そこへ向かって 子どもらは手を振る
そこへ向かって 子どもらは 飛ぶ


大地はあたたかく包むだけだ
青空は明るく見つめるだけだ
けれど その無言の笑顔の笑顔のなかに
子どもらは すべてを見 すべてを聞く


母たちの力が地球を支えるだろう
子どもらの力が地球をまわすだろう
流れつづける母と子の豊かな愛の鼓動が
つねに 世界の新しい朝を用意する



・・・私は、こちらの詩を、
5年前の、さいたま文学館で展示されていた直筆を拝見したことがありました。


懐かしいです。





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「水のいのち」秩父路 東京新聞埼玉版 昭和46年1月17日



こんばんは。


久しぶりに、章二先生の新聞コラムを載せます。


昭和46年の東京新聞埼玉版 1月17日日曜日 秩父路「水のいのち」です。



 若水ということばがある。古い年中行事のひとつで、
もともとは立春の日の早朝にくむ水を言ったが、後世は、
元日に初めて組む水をそう呼ぶようになり、一年の邪気を除くものだという。
季語として歳時記にも出ており、新年を喜ぶ思いにあふれた美しいことばだ。


 もっとも、こういう新鮮な互換は、現代の水道の水ではちょっと味わいにくい。
どうしても井戸水である。同じ水でありながら、井戸水と水道の水では
いうにいわれぬ感触の違いがあり、地中からこんこんとわき出る清水に触れてこそ、
「ああ、これが若水のにおいだな。水にもいのちがあるのだな」
という思いが深い。


 比企郡嵐山町の八幡神社境内に、「木曽義仲産湯(うぶゆ)の井」
と呼ばれるわき水があり、県の指定史跡になっている。
このあたりは旧菅谷村の鎌形地区だが、義仲の父である源義賢は、
同村大蔵に住み、婦人の山吹ひい目を鎌形に住まわせていたという。
幼名を駒王丸といった義仲は、久寿元年(1154年)にここで生まれた。
したがって、彼が産湯を使ったと伝えられている清水は、
それから八百数十年後の現在にいたるまで、
まさに尽きることなくわきつづけているわけで、この澄みきった水を
手に受けると、水のいのちの不思議さばかりでなく、木曽義仲という
悲劇の武将のおもかげまでが、そこはかとなく胸中に浮かび上がってくるのだ。


 彼が二歳の時、大蔵の館にいた父親の源義賢は、オイにあたる栗源太義平
のために討たれた。同族争いである。この栗源太儀平は頼朝や義経の兄
であり、義仲にとって、彼等はいずれもイトコになるわけだ。
それゆえ、同じ源氏でありながら後年頼朝・義経によって討たれねばならぬ
彼の悲劇は、すでにこの時点で始まっていたことになろう。
 義仲が比企の空気を呼吸したのは、この二歳のときまでで、
父親の非業の死と同時に、彼は母の山吹姫いだかれて、遠く木曽の地へ
落ちのびて行った。そして、木曽の豪族中原兼遠にかくまわれつつ
成人する・・・・・。源平の物語が示す通り、長じた彼は
平氏追討の兵をあげたけれど、その結末は、イトコである義経の
軍勢と戦わなければならぬ羽目になり、近江の粟津(現在の大津市)
で敗死。わずか三十年の短い生涯を閉じたのは、寿永三年正月二十日
のことであった。


 新年の若水から、思いが遠い世の義仲に及び、彼の最期がまた正月だった
というのも、なにやら奇妙な縁である。しかし、考えてみれば、たとえ
時代は離れていようと、彼も埼玉に生まれた同県人のわけだから、自然に
通じ合う魂のようなものがあるのかも知れぬ。事実、彼が
うぶ湯を使ったという清水は、いまも昔の儘にわっき出しているのだ。
北埼玉に生まれ、利根川の水に親しみながら育った私は、折にふれ、
水のいのちを思い、水のこころを思うのである。わきつづける水たちは、
文明によって勝手に汚されてはならない。



・・・・
先生は、自分の足で埼玉をくまなく歩かれた。
心で歴史を感じ、全身で風を感じ、足で土を感じ、
神の気配を感じながら。



当資料は、ご子息の宮澤新樹様に頂戴いたしました。
まことにありがとうございます。




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