さざなみのキヲク~宮澤章二先生の詩~

宮澤章二先生の詩をご紹介します

第三回ラジオ歌謡音楽祭とさいたま文学館(桶川)


ご無沙汰してます。


心身不調から抜け出せず、苦しんでました。


少し外に向かってゆける心のパワーが、


本当に少しだけ出てきたところです。


11月9日の第三回ラジオ歌謡音楽祭を観覧することができたんです。


年齢の若い方が歌っていました。会員の方のお子さんでしょうか、


独唱、とても上手でした。純真な歌声を久しぶりに聴きました。


文学館には、2年ぶりに行きました。


懐かしく感じる宮澤章二先生の直筆資料。先生の真心と几帳面さが


にじみ出ていて、再度胸が熱くなりました。


何時間でも、先生の書面を見ていたかったけど、


時間とれずに、音楽祭が始まる前に立ち寄り、20分ほど味わって


後にしました。


私にとって、大宮、上尾、桶川・・・これらの駅は、望郷の念を想い起こさせる。


実母が埼玉出身だからかもしれない。


またいつか文学館に行きたい。


そんな気持ちになる。


あそこに行けば、章二先生に会える。常設に作品が置かれている訳ではないけれど、


私にとって、


そう思える場所、


なのです。



そして、今日。


子供が、先生の「行為の意味」を作文の題材にしました。


嬉しかった。



           『行為の意味』


                       宮澤 章二



――あなたの<こころ>はどんな形ですか
と 人に聞かれても答えようがない
自分にも 他人にも<こころ>は見えない
けれど ほんとうに見えないのであろうか


確かに<こころ>はだれにも見えない
けれど<こころづかい>は見えるのだ
それは 人に対する積極的な行為だから


同じように胸の中の<思い>は見えない
けれど<思いやり>はだれにでも見える
それも人に対する積極的な行為なのだから


あたたかい心が あたたかい行為になり
やさしい思いが やさしい行為になるとき
<心>も<思い>も 初めて美しく生きる
―――それは 人が人として生きることだ




9日は、章二先生に、会えた。


会えたけど、


会いたかったです。




にほんブログ村


羽生市立郷土資料館 収蔵資料展 宮澤章二コーナー!


羽生市立郷土資料館で、収蔵資料展が行われています。



会館30周年記念 企画展Ⅱ


収蔵資料展




会期 29年2月25日(土)~5月7日(日)


開館時間 午前9時~17時


休館日 毎週火曜日、3月31日(金)、4月27日(木)



館内の様子を、宮沢新樹様に送っていただきました。


わー、「行為の意味」の直筆原稿ですね!
欲しい。間違いなく永遠の家宝。







わー。
先生の直筆色紙。
先生の色紙の文言は名句です。


新樹さま、ありがとうございます。




羽生、行ったことありますよ。
田んぼがずっと続いていて、どこまで行っても平野なんです。
私の家の周りとは大違い!


子どもを育てるところは、都会じゃないほうがいい。
それは、都会と地方両方に住んでいたことがあるからこそ言える。
家族、地域を大事にし、
ふるさとの偉人を称賛し、敬い、勉強し、
自然のなかで生活することは
昔から多くの日本人がやってきたこと・・・
地方にお嫁に行けばよかった!!


親の意向通りにやってきたけど
全然いいことなかったしね。
なんなんだ?そんな人生って。
そう思うときに、宮澤章二先生の詩は
胸に迫ります、そして、
そうじゃない人にも、
人生の指針を教えてくれます。








にほんブログ村

「神殿」 宮澤章二詩集【空存】より


「神殿」



なぜ 巨大な神殿を造ったのか


―――― 神が見えないからだ



神の見えない人間にとって


神を呼びだす声は 祈りは



ことさら大きくなければならない



なぜ 神殿に神を祭ったのか


―――― 神がどこにもいないからだ



いないものを 呼び


いないものに ひざまずく・・・・・・・


<無>の中にこそ人間の救いがあったのだ



昭和41~43年 作品より




・・・・章二先生が50歳を目前に作られた詩の集大成
「空存」の中の一編です。


丁度同年代の自分。妙に納得できるんですよね。
「闇」を感じます。
そして「無」の感覚・・・
ニュアンスまでが自分なりに想像できます。
そんな年代だと思うんです、虚無感や、絶望感・・・・


だからこそ、
少し健気な時じゃないと読み進めることができません。


先生の詩は、ずしっとくるんです。
そのずしっとした重みが、心にしみ込んで、
先生への尊敬の念になるのです。






にほんブログ村