さざなみのキヲク~宮澤章二先生の詩~

宮澤章二先生の詩をご紹介します

「言葉の世界」ホームスタディほくしん42 昭和55年1月


「言葉の世界」


宮澤 章二




新しい年 おめでとう


と だれかに声をかけられて


怒りだす人はいないだろう



<お元気でね・・・・・・>とか


<がんばってね・・・・・・>とか


こころのこもった明るい言葉は


決して 人間の心情をよごさない



明るい言葉に取り巻かれたら


ひねくれ者だって明るい顔になるだろう


人間は 言葉の世界に生きて


美しいことばや よごれたことばを


歴史のなかで たくさん作った



ぼくらは 精神のふるいにかけて


明るく暖かい言葉だけを 残したい



昭和55年1月20日






・・・・・埼玉県のこどものために書いた、先生の詩。
北辰図書のホームスタディほくしん。
今もありますよね?


昭和55年。あの頃私は中学生・・・・
荒木大輔が甲子園で大活躍した年。
私自身のことを考えても、輝いていた時代。
昭和50年代前半。子供にとってはいい時代だったと思う。
「つっぱり」の恰好、「校内暴力」などの不良行為がウナギのぼり、
10代アイドルがどんどんデビュー。
そんなはっちゃけた若者たちがちやほやされた時代であったけれど、
日本全体も活気にあふれてエネルギーがあったと思う。
いい時代。それは、
まだまだ、日本国民が日本人らしく謙虚で真面目で、
古きよき日本人だった人が親で、
その親の言うことを聞く子供がいて、今より個人主義じゃなくて
学校の先生方がしっかりしてて、もう少し大人の良心があって。
そういうことだと思っている。


その、日本人らしく謙虚で真面目な代表のような方が
章二先生。
そんな先生の、子供へのお言葉。
心が洗われるんですよ・・・・・泣けてきます。


無垢な子供たちに、先生の、心からの真面目な言葉を贈りたい。今も。
人生の訓えを、先生の言葉から、知ってほしい。






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墓の哀れ 秩父路 東京新聞昭和45年11月8日

宮澤章二先生のエッセイ「秩父路」です。


東京新聞埼玉版 昭和45年11月8日(日)



 風物詩を書くために、ときおり県内を歩き回る私だが、
自分の好みもあって、お寺やお墓を目標にする場合が多い。
 いつぞや、大里郡岡部町にある岡部六弥太の歯かを訪れたときには、
五輪の墓石の真ん中あたりの部分が丸く削り取られているのを見て
びっくりした。岡部六弥太は鎌倉時代の人で、源氏に属した武将である。


 私を案内してくれた土地の人が「この墓石を削って飲むと
お乳が出るという信仰が古くからあり、いつのまにやら、
こんなふうにへこんでしまったのです」と教えてくれた。
 奇妙な昔の俗習ではあるけれど、私はそれを一概に笑う気には
なれなかった。仁国営様が普及した現代はいざ知らず、
育児に母乳が不可欠だった頃の母親たちにとって、自分のお乳の出が悪い
という不運は、身を切られるよりもつらい想いだったろう。
だからおそらく幾百人とも知れぬ母親たちが、こっそりと
墓石を削り取って、その粉末を深い祈りとともに飲んだに違いないのだ。
 岡部六弥太という武将は、加増によると肥満タイプの人だったそうで、
胸部なども堂々と盛り上がっていたらしい。その結果、
男性であるにもかかわらず母乳を恵む助け神として、
後の世の女性たちから慕われるはめになったのであろう。


 数日前のこと、こんどは、世の男性たちから愛慕されたに違いない
一女性の墓を見に出かけた。入間郡坂戸町の永源寺に立つ
遊女高尾の墓である。江戸吉原の三浦屋には、高尾を名乗る遊女が
初代から五代目までいたというが、ここに墓のある高尾について
「二代目か三代目か四代目か、そのへんがまだはっきりしません。
いま資料を集めつつありますので、そのうちある程度正確なことが
わかりましょう」と、永源寺の住職さんはいう。
 かなり大型の墓石に刻まれた戒名は「月桂円心大姉」で、
万治三年雪月二十七日没とあり、十二月を雪月と呼ぶあたりも風雅だ。
何歳で死んだのかは寺の過去帳にもないそうだが、
あまり長命ではなかったであろう、と想像される。当時、
高尾を名乗るのは格式の高い遊女だったろいうけれど、
格式が高かろうと低かろうと、しょせんは金がものをいう遊びの里の
女性であり、町人文化興隆の陰に咲くあだ花であったことに
変わりはない。


 ひところ、花柳界の女性たちがよくお参りしたらしいが、
岡部六弥太の墓と違って、こちらのほうには別に削り取られた跡もない。
もともと信心の内容が異なるはずだから、女ごころの切実感にも、
それなりの差があったわけであろう。
 年表で調べると、この高尾の没した万治三年は、
有名な伊達騒動のあった年に当たる。その十二月、
栄華をきわめた一人の遊女が、江戸を離れた草深い里で死んだ。
冬日のなかに観る古い墓は、なぜか哀れである。
 (宮沢氏は詩人)



・・・・・


先生の、とてもわかりやすくて情景が浮かぶお話。
もののあわれを端的に伝えてくれる・・・。
自分も、先生のように明確でわかりやすい文章を
書きたいものです。






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草萌えの譜 昭和45年2月1日



宮澤章二先生の詩です。


毎日新聞埼玉版 昭和45年2月1日掲載





「草萌えの譜」


宮澤 章二 =県文連・文学部長=




ぼくは 早春を忘れていた


忘れながら 待っていた


青い やわらかい 草萌えの時刻を・・・・・・・・



ぼくはもう若くはなかったが


はずむ心を頂くほど若くはなかったが



いつか 早春を告げる草たちは萌そめ


すみれやたんぽぽや母子草のつぼみを


野づら一面に育てようとしている



そのつぼみが かすかにぼくの心で匂った


―――耳には枯れ草の風が鳴りつづけるのに





・・・2月にはもう草花の芽が少しずつ膨らみだすんですね。


確かに、1月半ばの今、ボケのつぼみが早くも膨れてきています。


早春、ですね。


昭和45年。いい時代でした。


その頃の先生は51歳。


若者のわくわくするような弾む心は確かになくなりつつあるお年。


私にもわかります。


ご子息の新樹様によると、先生は「死ぬまで万年文学青年だった」


そうです。だから、お年を感じながらも


芽吹きのにおいを感じられたのですね。







宮澤章二先生



埼玉県羽生市出身。
 東京府立高等学校、東京大学文学部美学科卒業。
 埼玉県立不動岡高等学校の教諭時代に、疎開で加須市に住んでいた作曲家の
下総皖一と出会ったことから、詩人・作詞家として活動を開始。


主な著作は「蓮華」「空存」「枯野」「風魂歌」等多数。
 校歌や合唱曲、童謡などの作詞を多数手がけた。


特に校歌は埼玉県内を中心に300校以上にのぼる。
クリスマスソング『ジングルベル』の訳詞者としても知られる。


日本童謡賞、赤い鳥文学賞特別賞、埼玉県文化賞、埼玉県文化功労賞知事表彰などを受賞。
 大宮市教育委員長も務めた。
 詩『行為の意味』の一節、「思いは見えないけれど、思いやりは見える」が、
ACジャパンの2010年度キャンペーンCMに使用された。


平成17年3月11日逝去。





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